天国と地獄

文字を書きたいときに書きたいだけ書くおたくのブログ

Twitterのはなし

文章を書きたいので書く。
オチはない。


ここ数年、と言っても大学のレポート卒論地獄から解放されて数年、ある程度長い文章を書く機会がほとんどなくなってしまった。単純に文章を書く必要のある生活ではなくなったこともあるけれど、Twitterが生活の中に、完全に組み込まれてしまっているからというのが大きいと思う。

Twitterはとても楽しい。色々な感情が見られるから。もちろんユーザー同士の関わりとか、私もそれなりのおたくであるので燃料の補給とかいう意味でも楽しい。でもただ単にたくさんの人間が好き勝手してる空間が楽しい。

閑話休題

Twitterつぶやきの頻度としては大学の頃が一番多かった(1日に5回以上規制とかザラだった)。その頃はフォロワーも皆大学生から高校生くらいで、深夜にみんなで、深夜クラスタ、早朝クラスタなどとふざけながらもレポートやら論文やら宿題やらをやっていた。絶望の朝とかつぶやきながらも仲間がいることに安心していたところがある。

今は、TLの読み込みの際、稀に使うアプリで稀にAPIのリミットに引っかかる程度で規制されるほど呟いていない。アカウントをいくつか持っていて、用途毎に分けているというのもあると思うけれど。そんな中、昔と何が変わったかというと、自分ではなく周りなんだな、と思う。一緒にレポートを書いていたフォロワーが結婚している。父親になっている。母親になっている。絵を描いていた人は漫画家になったりしている。色々な研究をしていた人は大手の会社に就職をしてほとんど呟かなくなった。

こんな書き方すると寂しがっているのかというように取られそうだけれども、そんなことはない。むしろ面白いなと思う。同じようなことをしていた人間が、全く違う道に進んでいる。私と一緒に卒論を書きながら、卒業できない!と騒いでいた人は卒業したし、就活死ぬ…と言っていた人は毎日それなりに仕事をしている。生きている。

人間ってやっぱり時間が経つと変わるんだなと思う。1,2年どころの話ではないし当たり前である。さっき寂しくないと言ったけれど、今考え直すと少し寂しいかもしれない。10秒持たなかったこの強がり。話し相手が減ったから寂しいというわけではなく、自分が何も成長しないまま燻っているのに周りはどんどん自分の人生を歩んでいて、寂しいんだと思う。
フォローしている人間たちが数年間変わらずそのままスライドしているのも大きな原因だとは思う。ただこの、数年来の友人になっている彼らの中に漂っているのはとても居心地がいい。安心感山の如し。例えるなら風呂である。出られるわけがない。燻りつつも居心地がいいから、抜け出せないのである。自分の燻りが、この大浴場の湯を濁しているのではないか、という不安も無いわけではない。ないし、恐らく実際濁しているのだろうと思う。新鮮なお湯を入れたい気持ちもある。ただ、TLに新しい湯を取り込もうという気すら起きない。というか取り込み方なんてものは100年くらい前に忘れた。

自分の人生を悲観しているわけではないけれど、なんかこうもうちょっと上手くやれたんでない?って頭の中で考えてしまう。どうしたらあのキラキラ輝いている、一緒にレポートを書いていた人たちに並ぶことができるのだろうか、と。でも案外その人たちも同じこと考えてたりするかもしれない。だから人間って面白いし、嫌いになれないんだろうな。人の数だけ思考と夢と悲しみ楽しさそういった感情がある。それがとても恐ろしくて愛おしい。そういうものが際限なく渦巻いているTwitterは本当に面白い。そんなことを考えながらずっとTwitterをやっている。やめられる気配がない。刺激を求めすぎて離れられなくなっているあたり、完全に麻薬である。恐ろしい。そんなことをぼやぼやと考えながらも、今日も私は一人で、絶望の朝だとか、外明るくなってきただとか呟くのだ。