天国と地獄

文字を書きたいときに書きたいだけ書くおたくのブログ

遅くなって

12月の終わりに父が亡くなった。

 
と言ってもうちの両親は離婚していたので、最後に父親にあったのは離婚直前だか直後の、大好きだった家を売って引っ越す準備をしているときだった。10年以上前である。
 
うちの父親はもう本当に人間としてダメな部分が集まってできたみたいな人間で、唯一女性関連(浮気とかもつれとか)の問題はなかったかなという程度。
借金をいろいろなところでこさえては返さず、家に取り立てが来る始末。その頃小学生だったのだが、知らない男の人が家にきて、母が一万円札を握らせて追い返していたのを覚えている。郵便ポストには督促状の葉書が毎日のように入っていた。
仕事もほとんどしておらず……ーというより仕事が全然来なかった。設計士だったのだが、祖母の話では、父は一軒家専門だったのでバブルが崩壊してから一軒家を建てる人間が減ってしまったそうだ。絶対に問題はそれだけではないと私は思うのだが、もう確認のしようがないのでそういうことにしておく。

そんなことを言いつつも、実は私は父が家の絵を描くのがこっそりと大好きだった。普段は口が悪く、がさつで、何かしら気に入らないことがあるとすぐに手をあげる、そんなとんでもない父親だったが、私は父が描く家の絵が大好きだったし、父が設計した自分の家も大好きだった。もう本当に大好きだった。定規でしっかりと、何の歪みもなく描かれた家はそれだけで私をワクワクさせるものだった。私の父さん、家つくれるんだ!と小さい頃は密かに憧れていたし、ちょっとだけ尊敬もしていた。

けれども人として、父親としてはおそらく最低な人間であった。特に金銭面で。父の収入がない、むしろマイナスのため、母は仕事を始めたがそれでも父は母の収入を持っていってしまった。それでも借金は作るしで、どうしようもなくなって、自分の夢だったという、自分で設計した家を売った。本当に自業自得とはこのことである。この頃はもう母もノイローゼのようになっていて、叔母が様子を見に通っていてくれたことを覚えている。

そんな感じだったので家では父親を嫌わなくてはいけない、みたいな空気が出来上がっていた。少しでも父親側に立つと、冷たい視線が飛んできたし、次第に父の話をすると、母から、そんなに好きなら父さんと一緒に住めばいいじゃないと怒鳴られるようになっていった。このときそうすればよかったのかなとたまに思うけど、そうしたら確実にロクな人生を歩むことはできなかったと思うので複雑な心境である。
とにかく父親に対しての気持ちは常にマイナスにしておかなければならなかった。それが辛かった。そもそも嫌いという感情を持続させるのが本当に苦手なのに、そんな環境たまったもんじゃない。母のストレスと一緒に私のストレスも蓄積していったが、恐らく母のストレスを考えると私のストレスなんてただのわがままレベルだったんだろうなと今になって思う。
でも、あのとき父に、本当は、そんな嫌いじゃないんだよって思っていたことを伝えておけば、何か父が亡くなる時、違う結果じゃなかったのかと思う。せめて連絡先聞いておけばよかった。

父はいわゆる孤独死だった。部屋で亡くなっているところを警察に発見されたそうだ。それが年末だったので、正確な日付はもっと前かもしれないし、その日かもしれない。私には何もわからないのだ。本当に何も。母に聞いてもあまり積極的に話してくれないし、父には身寄りが全くないのでそれも確認しようがない。どうもかなり遠い親戚がいたそうなのだが、それも今どうなっているのかわからない。連絡なんて取れるはずもない。親友と呼べる人間も1人いたのだが、その人も20年ほど前に亡くなっている。父のことで連絡できる人間がそもそも存在しない。

父が本人であるかどうか、DNA鑑定をしなければいけない時、私の元に警察の人たちが来た。その人たちに聞けば何かわかるだろうか、と思っていたのだが、何だか頭が混乱していて何も聞けなかった。とりあえず、父が父だという鑑定が、出て欲しくないとか、いやもう絶対本人だろうけどとか、言葉にするとうまく表現できないが、そう言った気持ちでぐるぐるしていた。

せめて墓参り、と思うのだが、墓の場所もわからない。あることはわかっているのだが、西のどこかという感じでもう本当にどうしようもない。

一人っ子で天涯孤独だった父を送ってやりたかった。父方の祖父母は私が生まれたか生まれる前か、もう亡くなっていたので会ったことはなかった。ただ、家には和室と仏壇のスペースがちゃんとあって、そこに会ったことのない祖父母の写真があることは知っていた。昔は父にも、両親がいたことが不思議で仕方なかった。父のことを私は何も知らない。誕生日も8月ごろだった気がするという程度である。物心ついた時から母に、うちに父はいないと教え込まれた結果である。(普通にいたけれども。)しかし母にとっては他人だろうけど私にとっては父親なのだ。私はとんだ親不孝ものに育ってしまったと思う。どうしようもなかったんだけど。

 

父はちゃんとお母さんとお父さんに会えただろうか、1人で寂しくなかっただろうか。父の機嫌のいい時にはちょっとだけこっそり話をした。プラスチックの皿は電子レンジに入れてはいけないと教わった。塾の送り迎えは山道なのに運転が死ぬほど荒くて何度も今日が命日かと思ったけど、授業には間に合ったし、コンビニでこっそりアイスを買ってくれたから許せた。父がくれたお年玉は小学校の時の、最初の一回が最後の一回だった。父がくれた唯一のものは、北海道の木彫り熊と振り子時計だった。熊はとても渋かったけど可愛がっていた。でも母さんに捨てられてしまった。時計は壊れてしまって自分で捨ててしまった。簡単に捨ててしまった。

今まで何度も葛西周辺に行くたびに、偶然会ったりしないかな、と思っていた。事務所が葛西周辺にあることは覚えていたから。自分から何もしないで偶然に頼ろうなんていい度胸である。その気になれば、おそらく母と違って、血縁のある自分だったら父を探し出せたのではないかと思う。今になって思う。祖母に何度も父さんに会いたくないの?と聞かれ、その度に母と妹のことを考えて、どうかな、と濁していたが、今なら言える、会いたい。今にならないと言えなかった。お父さんに会いたい。もう一回だけ会って、私もう入院もしないしちゃんと自分で稼げるようになったよって言いたい。もしかしたらお金せびられるかも。それともどうでもいいって顔されるかも。お前なんか知らないって言われるかもしれない。

私には父がどんな表情でどんな声で何を言うのかがもう、全くわからない。想像できないのではなく、もう本当にわからないのだ。大人になってちゃんと物事を考えられるようになってからしっかり話をしていたら何か印象も違ったかもしれない。でももう確認しようもないし、家に父の写真なんてないし、この気持ちをどうすればいいのかわからないのだ。最低な娘でごめんなさい。でも、父がいたから私がここに存在している、それだけははっきりとわかる。

父さん、ありがとう。言うの遅くなってごめん。どうか向こうでは自分のこと好いてくれる人と一緒にいられますように。お疲れさま。

Twitterのはなし

文章を書きたいので書く。
オチはない。


ここ数年、と言っても大学のレポート卒論地獄から解放されて数年、ある程度長い文章を書く機会がほとんどなくなってしまった。単純に文章を書く必要のある生活ではなくなったこともあるけれど、Twitterが生活の中に、完全に組み込まれてしまっているからというのが大きいと思う。

Twitterはとても楽しい。色々な感情が見られるから。もちろんユーザー同士の関わりとか、私もそれなりのおたくであるので燃料の補給とかいう意味でも楽しい。でもただ単にたくさんの人間が好き勝手してる空間が楽しい。

閑話休題

Twitterつぶやきの頻度としては大学の頃が一番多かった(1日に5回以上規制とかザラだった)。その頃はフォロワーも皆大学生から高校生くらいで、深夜にみんなで、深夜クラスタ、早朝クラスタなどとふざけながらもレポートやら論文やら宿題やらをやっていた。絶望の朝とかつぶやきながらも仲間がいることに安心していたところがある。

今は、TLの読み込みの際、稀に使うアプリで稀にAPIのリミットに引っかかる程度で規制されるほど呟いていない。アカウントをいくつか持っていて、用途毎に分けているというのもあると思うけれど。そんな中、昔と何が変わったかというと、自分ではなく周りなんだな、と思う。一緒にレポートを書いていたフォロワーが結婚している。父親になっている。母親になっている。絵を描いていた人は漫画家になったりしている。色々な研究をしていた人は大手の会社に就職をしてほとんど呟かなくなった。

こんな書き方すると寂しがっているのかというように取られそうだけれども、そんなことはない。むしろ面白いなと思う。同じようなことをしていた人間が、全く違う道に進んでいる。私と一緒に卒論を書きながら、卒業できない!と騒いでいた人は卒業したし、就活死ぬ…と言っていた人は毎日それなりに仕事をしている。生きている。

人間ってやっぱり時間が経つと変わるんだなと思う。1,2年どころの話ではないし当たり前である。さっき寂しくないと言ったけれど、今考え直すと少し寂しいかもしれない。10秒持たなかったこの強がり。話し相手が減ったから寂しいというわけではなく、自分が何も成長しないまま燻っているのに周りはどんどん自分の人生を歩んでいて、寂しいんだと思う。
フォローしている人間たちが数年間変わらずそのままスライドしているのも大きな原因だとは思う。ただこの、数年来の友人になっている彼らの中に漂っているのはとても居心地がいい。安心感山の如し。例えるなら風呂である。出られるわけがない。燻りつつも居心地がいいから、抜け出せないのである。自分の燻りが、この大浴場の湯を濁しているのではないか、という不安も無いわけではない。ないし、恐らく実際濁しているのだろうと思う。新鮮なお湯を入れたい気持ちもある。ただ、TLに新しい湯を取り込もうという気すら起きない。というか取り込み方なんてものは100年くらい前に忘れた。

自分の人生を悲観しているわけではないけれど、なんかこうもうちょっと上手くやれたんでない?って頭の中で考えてしまう。どうしたらあのキラキラ輝いている、一緒にレポートを書いていた人たちに並ぶことができるのだろうか、と。でも案外その人たちも同じこと考えてたりするかもしれない。だから人間って面白いし、嫌いになれないんだろうな。人の数だけ思考と夢と悲しみ楽しさそういった感情がある。それがとても恐ろしくて愛おしい。そういうものが際限なく渦巻いているTwitterは本当に面白い。そんなことを考えながらずっとTwitterをやっている。やめられる気配がない。刺激を求めすぎて離れられなくなっているあたり、完全に麻薬である。恐ろしい。そんなことをぼやぼやと考えながらも、今日も私は一人で、絶望の朝だとか、外明るくなってきただとか呟くのだ。